「こうしたほうがいいよ」
「こうすればうまくいくよ」
「本に書いてあったんだけど──」
そんなふうに、誰かからの言葉や、
本やSNSのアドバイスに何度も救われようとしてきた。
でも、それを実行すればするほど、
なんだか“自分らしさ”が消えていくような気がしたこと、ありませんか?
育児でも、人間関係でも、仕事でも、
世の中には“正しそうなこと”がたくさんあって、
つい、それを信じてやってみたくなる。
でも、あるとき気づくんです。
「私がやりたいからやってるんだっけ?」
「この子に本当に合ってるのかな?」
「これは“誰かに認められるための育児”になってないかな?」
言葉に力があるからこそ、
それを“鵜呑みにしない力”も、きっと必要なんだと思う。
この記事では、
本や誰かのアドバイスに真面目に従って苦しくなった経験、
そして、そこから「考える育児」「自分で選ぶ子育て」に切り替えていけた道のりを、
ひとつひとつ丁寧に綴っていきます。
誰かの言葉を信じて、苦しくなった日
──「いい親になりたい」と思っていた、ただそれだけだったのに
「こう言えば伝わるよ」
「ちゃんと向き合えば、子どもは応えてくれる」
「怒らずに寄り添ってあげて」
そんな言葉を、信じてきた。
本に書いてあった。SNSで見かけた。
親しい誰かに言われたこともある。
どれも、悪意なんてなかった。
むしろ、応援してくれてると思った。
だからこそ──
うまくいかなかったとき、いちばん自分が傷ついた。
子どもは泣き叫び、何を言っても聞いてくれない。
やさしく声をかけたのに、睨み返された。
「うるさい」「わかってない」
そんなふうに突き放されたとき、
私が間違ってたのかな、って思った。
でも、それでも
「いい親になりたかった」だけなんだよ。
怒鳴りたくなかった。
泣かせたくなかった。
どうにか笑って過ごせる方法がないか、
ただそれを探していただけなんだ。
夜中に本を読みながら、ため息をついた日がある。
「こうすればいい」と書かれている方法を、
すでにやってるのに何も変わらなかった日がある。
それでも本を閉じられなかったのは、
「今やめたら、本当にどうにもならなくなる気がした」からだ。
たくさん相談もした。
でも、どこかで思っていた。
**「相談するのって、迷惑かけてる気がする」**って。
私だって、大人なんだから。
ちゃんとしなきゃいけないんだから。
そうやって、自分で自分のSOSにフタをしていた。
「信じた言葉に裏切られることがある」
でも、それは“その言葉が悪かった”のではなくて、
“今の私と子どもに合わなかっただけ”なんだと、今は思える。
「正しさ」に合わせて生きることより、
“自分たちにとってのやり方”を見つけていくことの方が、
ずっと誠実な生き方なのかもしれない。
「正しさ」は、人を支えることもあれば、追い詰めることもある
──いいことのはずなのに、なぜか苦しくなった理由
誰かの言葉に傷ついたとき、
それが「正しいこと」だったほど、言い返せなかった。
「子どもは親の鏡だよ」
「怒らずに愛情で育てようね」
「失敗しても大丈夫、親がどう受け止めるかが大切だよ」
どれも、耳が痛くなるほど聞いてきた言葉。
どれも、正しさをまとった優しさだった。
だからこそ、
できなかった自分を責めるしかなかった。
怒ってしまった日。
泣きたくなるほど疲れ果てた日。
「いい加減にしてよ!」って叫んでしまった夜。
その全部に、
「親失格かもしれない」って、
そっと自分で烙印を押していた。
正しい言葉は、
ときにナイフのように鋭い。
とくにそれを、自分が一生懸命やろうとしたあとなら──
できなかった自分をますます追い詰めることになる。
正論は、心に余裕がある人にだけ届くんだと思う。
そして私たちは、育児という不確かで不安定な毎日の中で、
「正しさに縋りたい」と思ってしまう。
その気持ちは、弱さじゃない。
どうにか、がんばろうとしている証拠なんだ。
でも忘れてほしくないのは──
「正しさ」は、あなたの心を救うための道具であって、
あなたを責めるための基準じゃないということ。
正しさに潰されそうになったときは、
そっと手放してもいい。
本を閉じていい。
「それでも私は、ちゃんとやってる」とつぶやいていい。
そうやって、自分で自分の“味方”になれることが、
育児を続けていくうえで、いちばんの支えになるのかもしれない。
「合っていない」と気づけたことが、回復の第一歩だった
──やめてもいい。間違ってない。そう思えた日のこと
「これが正しいはず」って思ってた。
本にも書いてあったし、誰かにもそう言われた。
だから、できないのは私のせいだと思ってた。
できない=努力が足りない、向き合い方が間違ってる。
そうやって、心のどこかでずっと自分を責め続けていた。
でもある日、ふと子どもの表情を見て、思った。
「この子に、今のやり方は合ってないかもしれない」
こちらの言葉に反応してないわけじゃない。
ただ、“響いてない”だけなんだ。
やり方が違う。タイミングが違う。伝え方が合っていない。
その瞬間、すっと心の中の糸がゆるんだ。
本のせいでも、子どものせいでもなくて、
「合わなかった」って、それだけだったんだ。
それから少しずつ、
やり方を変えることに、罪悪感を持たなくなった。
「こうしなきゃ」じゃなくて、
「今日はこれで様子を見てみよう」
そう思えるようになって、
子どもと過ごす時間に、やっと“自分の気配”が戻ってきた気がした。
たとえば──
✔ やさしく声をかけるより、
あえて「黙ってそばにいる」ほうが通じたこともあった。
✔ 子どもが泣いたとき、
「気持ちわかるよ」と言うより、「そっか、つらかったね」とだけ伝えた方が落ち着いたこともあった。
✔ 本の言葉を忘れて、ただ「今ここにいること」を大事にしただけで、
子どもとの関係が自然に整っていった気がした。
合ってなかった。
でも、それがわかったから変えられた。
変えたから、少し楽になれた。
自分の感覚を信じていい。
本に従うんじゃなくて、“この子と私に合うかどうか”を軸にしていい。
それがわかってから、
子育てがちょっとだけ、やさしくなった気がした。
子育てに必要なのは、正解より“ともに悩む味方”
──「答えをくれる人」じゃなく、「そばにいてくれる人」が必要なんだ
子育ては、正解のない毎日だった。
正しくやろうとすればするほど、心がすり減った。
誰かの言葉に頼ってみてもうまくいかなくて、
「なんでこんなに苦しいんだろう」と思ったこともある。
でも今、わかることがある。
わたしたちが欲しかったのは、
“正しい方法”じゃなくて、
“一緒に考えてくれる誰か”だったんだと思う。
失敗しても、怒っちゃっても、
「大丈夫、またやり直せばいいよ」って言ってくれる人。
「それ、よくあるよ」じゃなくて、
「私はこうだったけど、あなたのしんどさもわかるよ」って言ってくれる人。
誰にも相談できなかったわけじゃない。
でも、“相談した先で自分を否定されたくない”という気持ちが、
いつもどこかにあった。
だからこそ、本に、SNSに、
「否定されない優しさ」を求めていたのかもしれない。
でも、そろそろ気づきたい。
本当に必要なのは、“正しいことを教えてくれる誰か”じゃなくて、
「そのままの私でも大丈夫」と言ってくれる、たったひとりの味方なんだってことを。
そして、できれば、
まずは自分自身がその“最初の味方”になってあげたい。
✔ 本を閉じてみてもいい
✔ やり方を変えてもいい
✔ 今日はちょっと投げ出してもいい
そうやって、少しずつでも
「育児は、ひとりじゃなくていい」って実感できたら、
それだけでもう、大きな一歩だと思う。
この文章を、
今まさに“がんばりすぎている”あなたに届けたくて書きました。
あなたが読んでくれたことが、
誰よりも子どものことを考えている証拠です。
どうか、自分を責めないで。
大丈夫、あなたはちゃんと育ててるよ。
コメントや感想があれば、ぜひ教えてくださいね!

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